自分を好きになろう

人生で味わったうれしさも悔しさもフル活用して、新しいことにチャレンジしよう

2011.3.21石巻の自由の女神。

 3月21日。

 盛岡を昼前に出発して宮城県石巻市に移り、取材を始めた頃はすでに夕刻だった。震災後はじめての宮城県だった。

 病院や役場の取材をしているうちにiPhone3のバッテリーがきれてしまい、わたしは同行していた記者の男性とはぐれてしまった。

 日が暮れて、視界がきかない。首から下げているLEDライトをつけて歩いた。 

 だれもいない。自動車や電柱、商店のシャッター、漁船が津波に揉まれて地上にたたきつけられている。その瓦礫を路肩にどかしてようやく車線が通ったばかりの商店街を歩いて、開いている店がないか探した。あるわけがなかったのだが。

 商店街のアーケードの下に、石ノ森章太郎のキャラクターたちの等身大フィギュアが点々と設置されていた。他のすべてがなぎ倒されているのに、彼らだけはなぜかみな無事で、気合の入った目で虚空を睨んでいた

 被災地はどこも海のそばなのだが、町ごとに違うにおいがする。住んでいる人と暮らしが違うからだろう。

 本当なら他人に見せることのない押入れのなかや、秘密の小箱、昔の恋人の写真を挟んだ古いアルバム、思い出の本、そういうものがすべて津波によってさらけ出され、波と泥にめちゃくちゃに攪拌される。その時に発生するにおい。

 釜石は、なんというか、おばあちゃんが住んでいる古い民家のような、温かい排便臭のようなものを含んだにおいがした。

 石巻は、養分が豊富な泥の匂いというか、金属的なにおい、もっと勇壮な、海の男を想起させるにおいがする。

 

 「被災地」では、ソフトバンクの回線は全くあてにならなかった。わたしのiPhone 4は、電波を拾うために普段以上に電池を消耗して、朝8時にはフル充電されていたものが昼前には充電が切れてしまう。そのため、車の中では常に充電し続けていたのだが、車から降りて一人で取材を始めると、またあっという間に電池が切れてしまうのだった。乾電池式の充電器は気まぐれで、接触が良くないときは全く役に立たない。

 震災1週間前には、スティーブ・ジョブスがiPad2発売のプレゼンをしたのが話題になった。孫正義もそのプレゼンの場に参加していたらしい。興奮した様子でiPad2のすばらしさをtwitterで伝えていた。

 地震が起こるまで、東京ではiPhoneに不便をまったく感じなかった。そのまま他社携帯の新規契約も衛星電話のレンタルも考えないまま、東北に行ってしまった。

 NTTは、各自治体の災害対策本部に無料で使える衛星公衆電話をいち早く設置していた。加えて被災者が自由に利用できるように、すべての携帯キャリアの充電器も用意していた。ところがそこにはiPhone用のものがなかった。東北ではiPhoneの普及率が低いのだろう、と理解した。

 ソフトバンクの被災地での動きは見えづらかった。

 東京では孫正義が「原発依存をやめ、ソーラー発電施設を作る」とぶちあげていたが…。

 ソフトバンクのロゴをつけた車を一度も見なかった。孫正義が公約していた「公衆iPad」を設置している場所も自分が取材した釜石や宮古、盛岡や仙台になかった。

「御託はいいから流されたアンテナ、早く直してくれよ」

 と、毒づきながら歩いた。石巻のアンテナ状況は、震災数日後に石巻専修大学を拠点にボランティアをしている団体がTwitterで孫に直接掛けあい、携帯電話400台、iPad10台の提供を受けていた影響か、市街地の電波は割と入ってきていた。だが、津波の被害のひどかった門脇地区や商店街ではやはり電波が入らない。

 孫正義が、個人資産100億円と、引退までのソフトバンクからの全報酬を寄付すると宣言したのは4月3日のことだが、それよりもなによりも電話に電波がとどかなければここでは何もできない。

 わたしは車が運転できないので、同行の記者に電話をして、彼の運転する車に辿りつけなければ、宿泊予定の仙台には行けず、ここで夜明かししなければならない。

 震災後10 日も経っていない石巻にホテルなどあるわけがない。

 いざとなったら、駅前にある災害対策本部で、NTT が設置した衛星電話を借りるしかないか。しかしそれは被災者用のものであり、本当は取材者は使ってはいけないものだ。

 宮古や釜石ではソフトバンクの電波がほぼ全域で圏外だった。電波が全域で復旧するのは4月に入ってからのことだったので、震災2週目からソフトバンクのiPhone4一本で取材に入ってしまい、電波難民となったわたしはやむを得ず、頼み込んだり(まったく断られなかった)、被災者を装ったりして衛星公衆電話を使って編集部に状況報告をした。

 余震が続いていたので、市役所などのビルの上で津波警報が発令されると、警報が解除されるまでビルから降りられない。その間、新聞記者はみな衛星電話を使って連絡をしたり記事を送ったりしていた。わたしはただじっと黙って座っているしかなかった。

 今から考えると、運転免許も持たず、ソフトバンクの携帯だけで、よく無事だったなと思うほかない。

 宮城県警は震災後数日で、津波で紛失した人のために運転免許証を携行せずとも自動車の運転をしてもよいという通達を出したが、わたしはハンドルそのものを握ったことすらなかった。

 

 自由の女神が遠くに見えた。何かの間違いかと思って二度見た。やはり自由の女神だった。後日、藤原新也さんが、AERAのグラビアでこの自由の女神を撮った作品を載せていた。パチンコ屋の屋上の飾りだという。ポリカーボネイト(うろ覚え)製で、魚網のようなものが絡まっていて、像の足元は割れていた。グラビアを見て「さすがだ」と思ったと同時に、「なぜわたしは撮らなかったのだろう」とも思った。コンパクトカメラも持っていたはずなのに。それで今思い出した。わたしはリコー製品の愛用者で、初代機からGRDユーザだった。ところが、持ち込んだGRD3は釜石の細かすぎる砂塵にやられて、壊れてしまっていたのだ。

 商店街から歩いてだいぶ離れてしまい、とにかく明かりのある方に歩いた。

 時折通る車のライトが周囲の状況をよりはっきりと教えてくれる。

 目の前の橋が落ちていて、両路肩にスプレー缶で「◯」「」と生存者を確認する符丁が赤いスプレーで殴り書きされている車が折り重なっているのを見たときの絶望感といったらなかった。

 

 避難所となっていた門脇中学にたどり着いた頃にはあたりは真っ暗だった。

 避難所の外に犬が二匹つながれているのを見た時に、そういえばこれまで見てきた避難所にはペットがいなかったということに思い当たった。みな、泣く泣くペットを手放してきたのだろう、ということにその時に気がついた。東京の人にこれができるだろうか。

「ここは、ソフトバンクは電波入ります?」

 自警団の青年に聞いた。

「場所によるけど、この体育館はだいたい入りますよ」

 ほっとした。わたしはそこで携帯を充電させて欲しいと頼んだ。

「いいですが、あと20分ぐらいで21時になるので、その時間には玄関をしめてしまいます」

「ありがとうございます。助かります」

「でも、連絡つかなかったらどうするの?」

「歩いてとりあえず駅までいってタクシーがいれば拾って彼の取材していそうなところに行くつもりです。さっきタクシーが走っているのを遠くで見たので」

「土地勘ある?」

「ないです」

「停電してるし橋落ちてるし、辿りつけないよ、こんな時に間違って海の方にでて、また津波がきたら死ぬよ。今日はここに泊まっていったほうがいい。急いでいるの?」

「いや…」

「食事は?」

「大丈夫です」

 食べていなかったが、充電させてもらっているのに食事までありついてしまったら、わたしは取材できたのか人の迷惑になりにきたのかわからないと思った。

 それに、ワンブロック先には、避難できない人たちが住んでいることをわたしは石巻での短時間の取材で聞いていた。

 避難所にはそれなりに食べ物も水もある。電気もある。だが、建物が壊れていない家の住人は、避難所に入ることができない。枯渇している日用品や食料は自力で調達しなければならなかった。

 携帯の充電がすこしできた段階で、編集部に電話をかけた。デスクたちは次々に電話を替わり、わたしが取材した内容に基づいた記事のゲラの疑問点を聞いてきた。わたしはメモを見ながら死亡者数や仮土葬を行う地名などをその場で確認していった。

 10時の消灯時間となっても同僚とは連絡がつかなかった。

 寒い。

 自警団の青年は私のことを忘れないでいてくれ、玄関に様子を見に来てくれた。そして、真っ暗な避難所の中に手招きしてくれた。

 自警団は二人組で、体育館の壇上に一晩中すわっているのだという。わたしも壇上で隣に座らせてもらった。自分たちと同じ座布団を出してくれただけでなく、「冷えるから」と、下に銀マットまで敷いてくれた。

 壇上から見える避難者の人たちの暗い影はまるで、夜の水田のようだった。あぜ道のような細い通路が暗闇に浮かんでいる。田の字に区切られたスペースには間仕切りもなく、プライバシーもない。実に整然と、淡々と暮らしている。

 わたしは、あちこちで静かに寝息があがる体育館を眺めていた。