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母を愛していることと、母が最悪であること

雑記 笠原敏雄先生 毒親 本の話 幸福否定の構造 双極性障害

未だ考えがまとまってないのですがメモ的に書きます。

 

こんにちは。

心理療法家の笠原敏雄さんのサイトにあるこんなエッセイを読みました。

親に対するうらみ

 

この何年か急激に増えた実感があるのですが、抑うつ状態に悩んでいたり、引きこもりから抜け出せなかったり、自分が「アダルトチルドレン」であることに悩んでいたり……という心身の不調の原因として、自分が「毒親」に育てられたからではないかと仮説を立てている本やウエブ連載などをよく読むようになりました。

私は、ボランティアでヤフー知恵袋とか、たまに出るキャス番組や、SNS等で、双極性障害に悩んでいる人の話を聞いたり質問に答えたりしているのですが、相談をしてくる人たちも、「毒親」に育てられたのが良くなかったんじゃないか、という考えに至る人がけっこういるような印象を受けます。

 

で、気を付けたいなと思うのは、「毒親原因論」は、万能ではなく、現在のところとりあえずの仮説として今いろんな人に利用されているだけで、自分の不調の原因としてその仮説に完全に依拠してしまうのはどうなのかなと前から思っていました。そんな疑問を持っている中で、笠原先生のこのエッセイを読んだのです。

 

引用が難しい構成を取っているので、簡単に説明するとまず、

「母親への恨み」が無意識に抑圧されていて意識化できていないことが心身の不調の原因であると思われる患者さんを多く見てきた笠原さんは、「恨み」のもとになった出来事を患者が思い出すことで、精神上や肉体上の心因性の不調が消える場合があることを経験的に知っていると書いてます。
ただ心理療法を続けていくうえで、これがすべてのケースに当てはまるわけではないということにも気が付いたそうです。

患者さんによっては、「母に対する恨み」の記憶をねつ造して作り上げている場合「も」あり、その場合患者は「母親への逆恨み」ともいえる心理状態に長年置かれているわけだけれども、これはどういうことかというと、「母親への愛情の否定」という人間に備わった「幸福否定」というメカニズムにその人が従った結果、不調が起きているということなのではないか。そういうことを話しています。

私にはすごく納得がいく理屈なのですが、一読して意味が分からない人もおそらく多いと思われます。

幸福否定というのは、人間に本来備わった心の動きです。快適であり幸福である状態になぜか人は素直に向かわないというものです。笠原先生の著書が最近キンドル配信されたので、興味のある方は読んでみてください。

懲りない・困らない症候群: 日常生活の精神病理学

懲りない・困らない症候群: 日常生活の精神病理学

 
幸福否定の構造

幸福否定の構造

 

最近、アドラー心理学の解説書である『嫌われる勇気』とその続編が非常に売れているので、読んでみたのです。
笠原先生の著書『懲りない・困らない症候群』の中で「交際中の男性の前では必ず下痢をしてしまうことを苦にしている」女性のケースが例示されているですが、この場合、『嫌われる勇気』風の理解をすれば「それは無意識が男性を遠ざけている、つまり嫌っているのだ」ということになるかと思います。

その延長線上で考察してみると、例えば「毒親」と一緒に生活している主観的な事実(実際に毒親かどうかは不明であくまで主観的な主張)と、抑うつ状態という自覚症状があったとして、それも『嫌われる勇気』風に考えると「別居するなどして毒親から物理的に離れれば、抑うつ状態が解消する。うつは親を遠ざけたい本心からのメッセージだ」ということになるかと思います。それで、どうやって行動に出るかという方法を『嫌われる勇気』とその続編で示していますが「自己決定をすること、主体性を持つこと」ということになっています。
それが私には疑問で、不調の原因がわかっていながら行動に出られない場合、その人には主体性がないということになってしまうんでしょうか? 

これが私には疑問なのです。それで、今の私の「幸福否定」の考え方への浅い理解でしかないのですが、この場合「本心では親が大好きで、好きという感情を意識に登らせないために抑うつ状態だったり不調を出している」という「幸福否定」のメカニズムをまず考えたほうが、なぜ心身の不調という苦痛をおしてまで、その「毒親」と同居を継続しているのかという合理的な説明がつくと思ったのです。

 

「毒親」と戦ったという手記本やコミックエッセイはちょっと探せばたくさん出てきます(著者はなぜか圧倒的に女性が多い)。

これらを読んでみると、今の段階での主流って、自分が毒親に育てられていたっていうことを意識化したら楽になったってところで止まってると思うんですよ。

意識化できたら、「主体的に」親から物理的に離れるとか絶縁するとか対処できるってことなんだろうと思います。

でも、毒親であることは子どもからの主観的事実でしかないじゃないですか。子どもから親への「逆恨み」の可能性を完全に捨ててる(記憶のねつ造をしててでも親を恨むケースがある)というのが笠原先生が言ってることで。

でも実際のところ、正当なうらみなのか、逆恨みなのか、私にとってはけっこうどうでもいいなって思うんです。

ただ、「愛情否定」という考え方に立つ笠原さんの意見を読んで思ったのだけど(ここから先が言いたいことです)、本来的に子どもって親が好きなわけじゃないですか。

特に母親に対して無条件の愛情を持っていると思うんですよ。

これは錯覚でも妄想でもなく、子どもは母親を無条件に信頼している時期があるわけですよね。その時期に、母親が嫌いだっていう人はいないと思うんです。

この事実を軽視しないほうがいいんじゃないかなって私は思うんです。

「毒親だと認めて自分から親を切り捨てて離れましょう」という対処法では、「親を愛していた」かつての自分がいたという事実は回収できないと思うんだよね。

 

どういう方法かはわかりませんが、私は、親もいろいろ最悪だったけど、やっぱり自分が親が好きだっていうところに立ち返ることがゴールなんじゃないのかなって思う。

大体この「おかえり」のブログは日常的に思ったことを友達に送ったメールとかを切り貼りしているので10分もかからないで書いているんですが、今回も友達にダーッと上記をメールしたら、こんなお返事が来ました。

 

「毒親」って言葉はやはりインパクトあるし、その分親子関係で苦しむ人はある程度納得しちゃうところもあるんだろうけど、そのわかりやすさ故に、省略するところあり過ぎで、本質的な赦しや救いには程遠い感じだと思う 

 

私もそう思う。うまく言えないけど、自立を阻む「毒親」であっても親を愛していたという事実を見過ごすことで、おそらく「毒親死ね」とか言ってる人たちはまた苦しむのではないだろうか。

「自分が母を愛しているという事実と、母が自分を最悪な方法で育てたという事実は並列的にあって、それらは混同させなくて良い」そういう考え方をすることができたら、おそらく一番ラクな気がします。それは親のためじゃなくて自分のために。

実際、こういうことは不可能ではないと思う。

 

理想を言いすぎでしょうか?

 

次のエントリーに続きます。

okaimhome.hatenablog.com