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自分の地図をつくろう

新しい場所に出かけて楽しい経験をしよう

憎しみから解放されたとき

憎悪の感情の取り扱いに困ってるという人の相談を受けた。

私も憎悪したことがあるがよく考えたら、大して憎むに値しない人だったりした。

 

例えば自分に100億円入ってきたとか、仕事が認められたとか、すごい好きな人と一緒になれたとか、自分の想像する超幸福な状態にいてもその人を憎めるか?

そう考えると、自分が、現状感じている自分の状態よりも、もう一歩、幸せな状態になったならば、その人に対する憎悪の感情が持てなくなる可能性があるのかもしれないと思った。

今は、その人を憎悪できるレベルに自分はいる、そのレベルから外れていくと、憎悪の感情から解放される。

 

憎しみの感情の先には何があるのだろうか。

憎しみを昇華するとはどういう状態なのだろう。

よく「憎しみを晴らす」という言葉を見たり聞いたりするが、どういう状態が「憎しみが晴れた」と言えるのだろうか。

私は、憎しみの対象から自由になることが、憎しみが晴れたことになるんじゃないかと思う。

つまり「ああ、もうそのことはどうでもよくなったの」っていえる状態のことだ。

では、どうしたら憎しみから自由になるのだろうか。

 

その人を刺し殺すことだろうか?

刺したところで、瞬間の解決にはなるかもしれないけど、そこから先の人生を自分で引き受けなければならない。あれほど自分を傷つけた人を自分の手で葬ってしまったいま、謝ってくれる相手はいなくなり、自分が加害者となって誰かに向かって謝罪する側に回る。理不尽にもほどがある。

刺し殺すのはやめよう。

 

嫌がらせをすることだろうか?

例えば職場で孤立させるとか。

たとえば半年かけてそれを実現したとして、自分のその半年という時間を誇ることができるだろうか?

とはいえ、憎むなと言われて、そうですね、わかりましたと、憎悪を消すことができないから今苦しんでいるのだ。自己嫌悪の沼に首までつかっても、相手を憎悪しないとやっていられない、相手に嫌がらせをしないと、相手に傷つけられ、大事なものを損ねられた「自分」との釣り合いが取れない。そう思ってしまうこともあるだろうと思う。

 

もう一段階幸福になれば、相手を憎むレベルに自分はいられなくなる。

憎むことと幸福であるこことは本来、別々に存在している。

憎しみの対象が幸せかどうかということと、自分の幸福のあり方は本来別なので、相手を憎みながら幸福を探る作業を同時にすると良いんじゃないかと思う。

憎しみで身体が焼かれそうなぐらいつらいときはそうするしかないんじゃないかと思う。 

 

私は机を燃やしてやりたいと真剣に思っていたほど、ある同僚憎んでいたことがあるが、その人は別に今も私にとって変化ない(憎まれていると気がついてないので変わりようもない)が、私はもうその人がどうでもいい、とかそういうこともある。で、憎悪のトゲが抜けない経験をするのは意味があることだとも思う。

 

どんな人だって気持の立て直しには時間がかかるもので、憎い気持はなくならないからそれは仕方がないと諦めたほうが良いし、呪いたければ呪うとかしたほうがいいけど、絶対憎まれている人より、憎んでいる人のほうが疲れると思う。体力使うからね。

 

つい最近私はこんな経験をした。

あることがきっかけで、ずっとこだわって苦しんでいたことを手放せるかもしれないと感じたときに、それが楽しいうれしいという気持ちにきっとなるんだと思っていたら、まっていた感情は「さびしい」だった。

苦しんでいた過去の自分が「おいていかないで」って言っているのかな。

私は私にすら嫉妬するんだな。幸せになろうとしている私に対してすら。

ひとつの傷を昇華することは、人に経験を与える。

私は、経験をして変化することが幸せの本質だと思う。

私の過去が、幸せを獲得しようとしている私自身を怖れているんだなと、その時私はそんなことを感じた。

 

人生に打撃をあたえる大事故レベルのことが、普通に生きてても何度かおこると思うんだけど、たぶんそれは考え方の癖を改めさせてくれるきっかけになってるんだろうと思う。最近そう思う。

その痛みにとどまって時間を止めるのか、先に進むのか。人生は就職の面接とは違うので、誰かに気に入られる必要もないし、どっちが正解ということもないし、自分がどうしたいかだろう。