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投げたブーメランには刈られない

人を裁きまくっていた20代の頃

20代の頃の自分って、今の自分とは全然違うなぁって思う。

私は自分の物差しに合わない人とかを裁くタイプの人間だった。

 

とりあえず一流大学と言われる大学をでているか?

とか、

一流企業につとめているか?

とか。

あと、不倫してる人にすごい厳しかったきがするな〜。

 

何考えてたんだろうな、20代の私。

って思ったんだけどとにかく不安だったんだと思う。

 

母親には、子供の頃から

「お父さんは中卒だから漢字が書けないし本を読まない人で馬鹿すぎる」

ってずっと言われて育ってきたし、

(そして、父に母から言われたそのままを自分の意見としてつたえたら

父はすごく悲しそうな顔をしていた)

その後、父親が出て行って、

残った母親は妻子持ちの男性と長く不倫を続けていた。

大学の時に家が貧乏過ぎて国民健康保険の保険料が支払えず、

そんななかでインフルエンザになり、

「絶対に保険証がある会社に就職しよう」と

強く思ったのだった。

 

何を考えていたか?

なんだかもう訳がわからなかったんだろうね。

好きなこととかやりたいこととか、

考える余裕がなかったんだろうと思う。

やりたいことをやるよりも、不幸になることを避ける。

好きなことを追いかける前に、食いっぱぐれないことを選ぶ。

離婚しても貧乏しないように絶対に一生働く。

 

とか、

そんなことを考えていたんだと思う。

で、そういうことを考えないで好きなこととかやりたいことを追いかけている人が許せなかったんだろうと思う。

 

勉強できないとか、いい会社に入ってない(社会保険の保険証が

ない人はダメだと思っていたw)とか、

不倫してるとかさ。

 

私、家を買ったのが25歳の時なんですよ。

どれだけ世の中に絶望していたんだろうって25歳の自分を思い返して、思う。

家を買うって

「もう、誰にも頼らず生きていくんだ」って決意してたんだろうなって思うし。

 

で、今の自分って、

当時の自分がもっともバカにするような生き方をしている。

 

学歴とかは今更捨てられないけれど、そういうものに価値を置かなくなったし。

絶対「負け犬」にならないって決めて結婚したけど離婚したし。

精神疾患になったし。

周りには不倫している友達がたくさんいる。

 

当時の自分は今の自分とは絶対に友達にならないだろうって思う。

 

で、じゃあ、当時の自分が投げたブーメランに刈られているか? 

今不幸ですか?

って聞かれると全然そんなことないんですよね。

 

人を批判してさばいた自分のことを忘れているわけじゃない。

すごい狭い物の見方をしていたんだなということも今は、わかる。

でも、自分はいま

「不幸にならない」ということよりも「やりたいこと」を

積極的に選ぶように生き方を変えたので、

あの頃に自分に裁かれても、あんまりべつに、辛くないんだよね。

 

持っていなかったから、持っていないと思い込んでいたから苦しんでいて、

だから、自分にはできない生き方をしている人を排除していた若いころと比べて

だいぶ寛容になったんじゃないかなって思います。

今、私は結構幸せだよ。

そう考えると20年。

20年で人って変わるんだよなーって思った。

変わらない部分もあるんだろうけど。

 

念は通じるという言葉もある通り、かつて私が、

自分のものの見方の狭さゆえに軽蔑してしまった人は、

私のことを好きにはならないだろう。

でもおそらく「裁かれた」とか「レッテルを貼られた」とか

「ダメ認定/負け組認定された」とか感じるよりも、

「この子、いろいろ偏ったこと言ってるな……」って

逆に憐れまれていたのかもしれないなと。

自分では高みに立っていたつもりが、なんというか憐憫されていただけなのかもしれない。だから、勝ち負けなんてどうでも結局自分でしか決められないんだな。

 

瀧波ユカリさんが、昨日、Tweetで

「たくさんエゴを知ってまた愛に戻っていけばいい」

って書いててほんとにそうだなって思った。

 

愛だけでは愛がわからない。

エゴの世界に一度行く必要がある。そしたら愛がわかる。

そうだなって。

そう考えると人間って比較という行為をしてはじめて

何かの価値がわかる、そういう習性の生き物なんだろうと思う。

だからどう生きていても、比較のなかでエゴよりも愛を選び続けていけば

いずれ人は愛に戻るんだなぁと。

もっともっと愛に戻って行きたいなと思います。