「正論」に従って「友情」を失っていた。
かつての私は、人間関係に関してやや潔癖症というか、
自分で「こうあるべき」と決めたことから外れることをする人のことは
けっこうあっさりと「切って」きていました。
具体的には「筋が通ってない」ことをされるのが、すごくダメでした。
例えば、友達Aさんに、別の友だちBさんを紹介したとします。
Bさんが、さらに仕事先のCさんを紹介し、AさんとCさんが
仕事になったとします。その際に、
「Bさんを紹介してもらったおかげで、Cさんと出会ってすごくよかったよ」
みたいな一言が私とBさんのところにないと、
すごくイライラしてしまっていました。
離婚した夫と親しく付き合っている私の友達がたくさんいます。
それは別にいいのです。
そして、特に文句を言ったりもしないのですが
(夫に関しては私は全く嫌悪感も憎悪もないので)、
私に対して一言もないまま、夫と遊んでいる写真をSNSに
アップしてたりするのを見ると、この人なんだろうな…とか
思ってました。
とくにこういうの、最近SNSが発達してよく見かけてしまうんですよね。
15年の間、毎日話すような間柄の親友であっても、この点で
「ちがう」と思うと、どうしても許せなくなり、
そのまま絶交してしまうということがありました。
人に話すと、「映里ちゃんの怒りはもっともだし、筋が通ってないのは向こうだから、正しい判断だと思うよ」といわれるのです。
でも、私はもやもやしたままです。
だって、私は友達を失いたいわけじゃなかったから。
自分の「正論」に従って、友情を失う。
確かに正しく生きているのかもしれないけど、楽しい生き方ではないなと思いました。
かといって、されたことが嫌なことだと自覚しているのに、そこに目を向けず、「怒らない」のではなく「怒れない」でいるのも、やっぱりストレスがたまる。
どうしたらよかったんだろう。
「私の怒りパターン」を自分で捕まえてみる
こういうとき、判断をするのをちょっとやめて、自分の思考パターンを探すための時間にするといいのかもしれないなって最近は思います。
私のように「筋が通ってない」という「正論」に従いがちな人もいれば、
「上から目線で何かを言われるのがいや」という「正論」を持っている人もいると思います。
社会的事象に目を向けずプライベートを充実させてるだけで公的活動をしない人に対して批判する「正論」の人もいます。
自分にはどんな「正論」があるだろう。
どんな「正論」で人を責めてきただろう?
どういう時に不愉快になって、どういう時に「正論」で友達を責めたくなるのか。
自分が「正論」だって思っているその信念には、たぶん自分を苦しめる要素も潜んでいるような気がしました。
私の場合、「筋が通ってない」というと確かに正論ですが、
いろんな言いかえをしてみると
「感謝されたかったのにされなかった」
とか、
「自分を差し置いて、自分が紹介した人同士が仲良しになってしまった」
とか、
いろんなふうにこの現象を解釈できると思います。
私だって、紹介を受けて出会った人とものすごく仲良くなってしまうことはよくあるので、
そのこと自体に特に判断すべきものではないのです。
なぜ、不快になって悲しくなって怒って絶交までしてしまうのか。
怒りを感じる時、それは
コンプレックスを刺激されたから
なのか、
本当に相手が失礼なことをしたのか
なのか、
見極めることがまず大事だなと思いました。
(そして本来の意味で、失礼さというのは、自分の中にある要素と同調したからこそ、怒りを覚えることが<できる>ものです)。
それともう一つ。
信頼を積み重ねるのは時間も思いやりも必要だけれど、
信頼を崩すのは一瞬で、
その一瞬を自分はどこかで探しているのかもしれない。
破壊衝動のようなものがあるのかもしれない。
そんな、まとまらないことを考えていました。
友達って、すごく大事だけど、いなくなる時はいなくなるし、そういう時に自分が自分を責めないで喪失を受け入れることができる、そういう友達の失い方をしたいなと思いました。