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映画『人生タクシー』のかんそうの、はしりがき

みてきました。

jinsei-taxi.jp

 

企みに満ちたいい映画だと思いました。

本編上映前に、森達也さんと松江哲明さんがそれぞれ制作した短編が上映されたのだが、

本編において、こまっしゃくれた少女(この映画の主人公であり、映画監督でもあるパナヒさんの姪っ子役)を通じて語られる「映画の中の現実と、現実におきる現実」との間で、少女も撮影中のキヤノンのコンデジを下ろしながら「ちょっと! 授業で上映可能な作品じゃなくなっちゃった!」と怒るシーンがあり、そして監督自身はまさにリアル人生において上映可能作品が作れなくなった、というその「撮っていい映画、ダメな映画」っていう政治的に設定された境界線に触りそうになったりそうじゃなかったりっていうところを、日本的事象に変換してうまくすくいあげているのが森達也さんの短編だったな。「これは映像。映画じゃない」、「三流映画だからいいんだよ!」「認めたな、自分が三流だと」と笑わせるところもあり。にしても森さんってほんと演技がうまい。

一方で「自分が何かの制限により映画を撮れなくなっても絶対撮る対象」をプリミティブなものに求めたのが松江監督で、やはり、それは食欲とか性欲とかと同様の画的な強さはあったと思う。あざとい、でも、たしかに本音だろう、でもどっちだろう。そういえば古事記には天岩戸を開けさせたオモヒカネという神様がいる。

 オモヒカネは、アマテラスを外に出したい(でなきゃ世界は暗闇でまもなく滅んでしまう)と集まった神の中で最も賢者だったが出した答えは「アメノウズメにストリップをやらせる」ということだった。岩戸のこっちと向こう、小難しい境界をばんと飛び越えることができるのは根源的欲求を可視化するときなのかも。
 映画そのものは1つのドライブの中で起こり、特に女の子もったキヤノンのコンデジで撮った長回しには唸った。
そして何より、作中では積極的には語られない「撮れない事情」というものが、政治的な理由に求められるからこそ、タクシーを舞台装置に利用したただの「人生悲喜こもごも」話では終わらない。そういうところが、結果的に政治的な「境界線」を超えてしまっているこの映画の深みになってしまっているのが皮肉でもあり、羨ましくもあった。
タブーがあるからできる表現、表現と政治的タブーはこの映画においては依存関係だ。
で、ほんとに教科書に出てくるようなよく出来た映画だと思ったけど、それを一緒に見た映画製作者のKさんは隣で爆睡していた。なぜ寝れるのか。Kさんに聞いたら「特に悔しいと思わなかったから……」と。まあ、いい人と見に行った。