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「この人はこれで幸せなんだ」と考える。

これも先日、学校の友達と話していて気がついたことです。

 

友達は、認知症になったおじいさんの介護をしているのですが、折にふれて(私が理解できる範囲で)、介護で感じたこととかを教えてくれます。

おじいさんの変化に友達自身が適応できない時期があったり、おじいさん本人が自分の変化を受け入れられなかったり、っていうのがおそらく、知力や体力面での変化を凌駕する、認知症というものの本質なのかなってそれを聞いてて思うんですが、それで発見したことがあります。

 

それは、

 

私も、どんどんおじいさんになっていくお父さんの変化を見て苦しくなってしまっていた。

 

ということです。

 

父は認知症にはなっておりませんが、67歳なので年齢相応の老いがはっきり娘の私からもわかるようになってきました。

体つきも変化して、若い頃に比べて30キロ近く太ったようですし、趣味のゴルフもこの数年間やめてしまっております。また、過敏性大腸炎気味で、トイレが近いため、外出を嫌がるようになってしまったのも私が寂しく感じていた要因でした。

 

父親にはいつまでも、若々しくはつらつとしていてほしい。

だから、父にはこんなことを言っておりました。

「お父さん、健康のためにゴルフ再開しなよ」

「過敏性大腸ってストレス性じゃない? ストレス要因を見つけて対処しなきゃ」

「もっとダイエットしなよ」

 

でもこれって、よく考えると「父親に変化して欲しくない」っていう、「私自身の願望の押し付け」でしかないなって気がつきました。

私は父が変化してしていくことが怖いんだなと、自分の恐れに気がつきました。

 

なぜ、ダイエットしてゴルフを再開しストレスを溜めない生活をしてほしい、って願うのか。病気になって欲しくない、老いて欲しくないと、父親の生活を見ていて不安に感じるのか。そこを掘り下げていったとき、意外な感情を父親に持っていることに気がつきました。

 

それは、

 

「お父さんって、かわいそう」

 

というものでした。

 

お父さんが年齢相応の「幸せ」を得られていないように見えてしまっていた、それは太って体調不良気味ということに象徴されているように見えてしまっていた。

そして、「かわいそう」という父親への感情はいまに始まったことではなく、実は私がずっと子供の頃から持っていて、あまりに自然な感情になりすぎていて自覚することが最近までできていなかったことにも気がつかされました。

その根っこには「子供の私がいるために、父は私の犠牲になって人生が変わってしまった。本来の自分を生きることができなくなってしまった」という自分の罪悪感があることに気がつきました。

 

そこで、「父親の見た目、体力面を若く保っていてほしい」という自分のコントロール欲に気がついた時に試しに「父親はいまこれで幸せなんだ」ってあえて思うようにしてみました。

すると、父が太っていることも、過敏性大腸炎気味であることも、父親が選びとっている幸せな生活の副産物であり、それも含めて父親は受け入れているんだと思えるようになりました。

よく考えると、私自身に仮に子供がいたとして「20代の頃の見た目と活動量とはつらつさを維持してほしい」って子供にことあるごとに言われたとしたら、老いる自由を認めてもらえていないように感じて辛くなると思います。

父は変化によって起きる感情をいま楽しんでいる。老いを受け入れること。ストレスを感じること。全部がポジティブに塗りつぶされた生活って不自然すぎます。いろんな感情を味わうこと。それを楽しんでいるんだ。

 

だから、父親のありのままをもう少し受け入れてみようと思えるようになりました。

 

「お父さんがかわいそう」「お母さんがかわいそう」と思うと、今度は「父親のために」「母親のために」自分の人生を犠牲にするタイミングがいつかくると思います。

 

例えば、「両親を犠牲にしていま私がいるのだから、親の言うことを聞くのが罪滅ぼし」みたいな考えで、行きたくない進路に進むとかですね。

 

その結果、「私はやりたくないことをやらされた」って後で苦しんだりすることもあると思うんですけど、案外、出発点は自分のなかの誤った罪悪感から生まれているのかもしれません。

 

他人へのコントロール欲は罪悪感から来ている。

その罪悪感に気がつかない時、自分の本心とは離れた行動をしてしまうことがある。

 

ということだなとおもいます。

 

両親はあなたを産み育てるという選択の自由を行使し、常に最良の選択をし続けた結果今がある。養育放棄も養育費の放棄もその人の最良の選択の結果だし、自殺もそうです。選んだ彼らの選択の結果起きたことは、「私のせい」「私だから」ではない。

そう思うと少し、自分が生きていることの罪が軽く感じられるような気がしました。