自分の地図をつくろう

新しい場所に出かけて楽しい経験をしよう

死にたいって生きたいと同じなんだよね

今朝思っていたのですが
辛いこととか苦しいことを乗り越えないと得られない幸せっていうのがあると思って、それは、どこかから幸せを調達してくることではなく、自分って最初っから幸せだったんじゃん、って気がつくことなんですが、それって自分の中の光に気がつくことのような気がしています

今私は、ちょっと不思議な変化を経験しております。

事件取材記者として仕事をしていた20代の時から、察しがいいでは説明のつかない何かの直感力があることは自覚していて、遺族に話を聞いた時に、「(殺された親族のことを)本当によくわかってくれる」というようなことをよく言われていました。

で、それが最近ものすごく強くなってきて、死んでいる生きている問わず、人の意識がものすごく入ってきてしまっています。先週ぐらいまでは苦しいので大体1ヶ月くらいの間、学校に行く以外の時間はほぼ寝込んでいました。

「頭おかしくなるかもしれない」というどこか恐れも感じつつも、「それはそれでいいのかもしれない」とも思っていました。

今のイメージだと、人の意識って、駅前にたくさんいるティッシュ配りの人みたいなイメージです。
これまでは「ティッシュいりません!」と脇目も振らず駅まで直行していたのですが、今は、あ、ティッシュ受け取ってみようかな。っていう感じです。で、「いいティッシュだけ受け取ろう」というふうに、数日ほど前から考えるようになりました。

 

例えば今の私は、人の体の悪いところがエネルギーが溜まっているように見えて、思わずなんとかしてあげたくなります。それで、「放電」のイメージで自分を媒介にして地面に気を流すような感じのことをします、実際にすごく効くみたいです。触ると当然意識が流れてくるのでその人の問題や困り感がわかるので、それを話すことになります。
今、専門学校の実習で、障害者施設で自閉症の男の子と一緒に働いているのですが、彼はどこに行くにも子供みたいに手をつなぐのですが、彼の動物のような神様のような意識が伝わってくるとき、自分の方がすごく浄化される感じがしたので、他人のことも触るとわかるような気になったのかもしれません。

 

以前から察しの良さでは説明のつかない何かがわかるところがあったと書きましたが、これまでは自分の心のあり方の影響で人の負の部分ばかりがすごく見通せてしまい、かなり苦しんでいました。今考えているのは「腰が痛いとか、親の影響で調子を崩しているとか、そういうのがわかったとして、それを治してあげたとして、それが本質的なその人の幸せ感につながるのだろうか?」ということです。

 

人を幸せにするってこの段階の私にとってどういうことなのだろうということをとても考えています。

 
生きる意味って光度を増していくことなのかなって思うんですが、そう考えると私ができることって、苦しんでる人の心の中の光の存在を教えてあげることなのかもしれません

 

先日ものすごく意味がわかる感想をくれた人と今話をぽつぽつしてるんですけど死にたいって生きたいっていうこととほとんど変わらないので、それ自体悪くないですよね。っていったら彼が、死にたい人ってブラックコーヒーの中のガムシロップの甘さみたいに生きたいが絶対ある。っていってました。

彼の表現ではそうですけど私はそれは光にみえました