私は現在、占い師として活動しています。
10か月連続で鑑定件数は月間200件を超えており、 現在では占いの生徒さん(お弟子さん)も4人いて、占いを日々たのしんでいます。
毎日の鑑定を通じ、お客様のおかげで研鑽を積む機会をいただき、占いを通じて人生に対する洞察を積み重ね、自慢になってしまいますが、4月度は、200名在籍の占い会社にて、ランキング1位をいただくこともできました。
さて、、、
占いとは、いったい何だろうか??
カウンセリングではないし、医療行為でもない。
魔法的、呪術的ではあるけれど宗教とは明確に違う。
人生相談にしては「非現実的」な装置を利用する(タロットや霊感など)。
そんなことを常に考えながら、私は占いをしてきました。
ある日、文化人類学者・岩谷彩子氏の学術論文のレジュメにある占いの定義にかなりしっくりきましたので今日はそのことをご紹介します。
占いとは「語り直し」の技芸である。
岩谷氏はこう書いています。
占いは、予測不能な人間の生の謎に対して、日常的な秩序を越えた「他なるもの」を設定し、それまで生に与えられていた意味をいったん宙吊りにさせて新たに語りなおす技芸である。そこでは相談者の人生の別の意味が、物品と語りを用いて編みなおされていく。
抄録もそのまま引用します。
血液型占いからホロスコープ、姓名判断まで、私たちは日々日本のどこかで占いを目にする。ふとその占いに目を留めるとき、私たちはいまだに起きていない出来事の予測やすでに起きてしまった出来事の背景を「信じる/信じない」ではなく、「信じたい/信じたくない」と願ってしまっている。それは予測できない生に対する「賭け」や「謎」への誘惑である。占いは、日常を支配している秩序の向こう側にある「他なるもの」に、いったん私たちの「今、ここ」の生を預けることに端を発する。そして私たちの生をいったん宙ぶらりんな状態に置いたところで、生を「他なるもの」の言葉に引き寄せて語りなおそうとする試みである。
この生を語りなおす過程では、相談者との対話の中で占い師が何らかの道具を用いながら少しずつ語りが調整されてゆく。そこで構成される語りは、その場の状況をうまく語りに盛り込みながらストーリーを組み立てていく、いわば技芸としての語りとなっている。しかし、そのストーリーはいつもうまくいくとは限らない。うまくいかない場合の語りは、「騙り」あるいはイカサマとしてそしられることになる。そこで「他なるもの」は、単に目の前で生活のために言葉を放つイカサマ師の欲望の投影となり、占いは倫理を喚起する場となる。
本報告では、占いにおいて「他なるもの」が設定され、特定の手続きによってそれが開示されていく過程について、インドの占い師が用いる物品と語りから検討する。インドでは非常に精緻で複雑な知の体系として今日も多くの縁組に利用されている占星術から、占い師カーストによる門付け的な占い、道端の手相見まで、さまざまな占いが人々の生活の中に根付いている。用いられる物品や語りの形式は異なれども、いずれも物品や語りを構成する要素間の結びつきの脆弱さが、逆に占いの真正性を高めている。
さらに、占いの非合理性と超倫理性についても論じる。占いについて合理的に、あるいは倫理的には賛同できなくても「もしかしたらその通りかもしれない」と、生の謎を解き明かす言葉となりうる状況とはどのような状況なのだろう。ここでは、占い師、彼/彼女をまなざす相談者、人類学者、それぞれの占いに対する期待が交錯する社会状況の分析も交えて考察してみたい。
占いという技芸は、自らの生の不確実性がもたらす謎に、不器用にも立ち向かおうとする人間の真摯な問いかけの所産なのである。
占いに関する学術論文をかなり読みましたが、これ以上にしっくりする占いの定義、占いの役割を私は読んだことがありません。
岩谷先生の言葉の力に脱帽するばかりです。♠
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