自分を好きになろう

人生で味わったうれしさも悔しさもフル活用して、新しいことにチャレンジしよう

『境界の町で』プロローグ前半全文公開

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2014年4月に出版した『境界の町で』のプロローグ部分を2回に分けて公開します。

 

「プロローグ 漂う」 

 震災が起きてからずっと、私は人を探していた。 

 私の住む東京には津波はこなかったし、自分の身の回りの安否確認はすぐに取れた。というか、私自身は夫と別居中だったし、家族とは絶縁していた。だから私は誰からも心配されなかったし、誰からも探してもらえなかった。私は私で、誰のことも本心から心配せず、探すこともなかった。

 私という人間は、誰からも必要とされていない、誰も必要としていない。それは震災で浮き彫りになった。

 自分にとって愕然とするような発見だったが、

「私には、大切な人がいないんです」

 ということを言える雰囲気ではなかった。そんなことは巨大地震の前では、33歳の女の取るに足らない悩みでしかなかったから。

 東北では、2011年の3月11日の夕刻から、途方もない規模での「人探し」が始まっていた。家族や恋人が、それぞれに「本当に大切な人」を探す時間が始まったのだった。

 その日の午後2時46分、私は勤務先の週刊誌編集部で資料をコピーしていた。マグニチュードが修正されるたびに数値が上がり、結局マグニチュード9.0という未曽有の数字となったその揺れは、2分以上も続いた。

 昭和30年代に建てられたこの建物はきっと崩れるに違いないし、私はこのビルの下敷きになって死ぬに違いないと感じるほどの揺れは、生まれて初めてだった。

 立っているのも困難なほどの揺れの中で、私はコピーを投げ捨て、這って会議用の大机の下に潜り込んだ。同じ机に潜り込んだ若い女性編集部員は、泣いていた。

 最初の揺れが収まると皆の取材予定はすべて変更になった。余震が続く中で、男性編集部員はカメラマンとともに車やバイクに分乗して東北に向かった。

 NHKは、3時過ぎには名取市上空から津波の映像を空撮で中継し始めた。名取市閖上、という地名をはじめて知ったのはこの時だ。東北の沿岸部で起こっていることが次々と、しかし全貌がつかめないままただ映しだされるテレビから、私は体を離せなくなっていた。NHKが報じる各地の被災情報にまぎれて、すでに他界した母の故郷である宮城県多賀城市も津波でやられたことを知った。そして、海のそばで眠る先祖の墓はきっと流されただろうと思った。

 私は上司からの指示を受け、電動自転車で東京の被災状況を見て回ることになった。

  会社を出ると目の前の道路は車で埋まり、動く気配がなかった。自転車にまたがり、スイッチをオンにして歩道に滑り出る。都心部を目指すために外堀通りを走った。

 四谷の自転車販売店の店頭からは商品が全て売り切れになり、都心のコンビニの棚からは食べ物が消えていた。首都圏から郊外へ向かう電車は運休になり、築地本願寺や港区御成門小学校には帰宅困難者のための避難所ができた。東京タワーのアンテナは地震の影響で大きく曲がっていた。

 その晩、東京の道という道は汚水をたたえた溝のように、車列がゆっくりとしたスピードでが流れては止まった。深夜までずっとこんな様子だった。歩道にも人が溢れた。大切な人に会うために、徒歩ででも家に帰りたい人たちの群れだった。

 

 電話はつながらなかったがメールは通じた。ひと通り都心部の様子を見て回った私は、その晩の東京の様子を上司に送信した。

 仕事を終えた私の自転車は銀座に向かった。

 2005年の冬に私を捨てた男にでも会おうと思ったからだ。

 

※※

 

 私を捨てた39歳のこの男は母ひとり子ひとりの家庭で育った。鑑別所に送られそうになった中学3年生の時、雪ふかい地方にたったひとりで移り住み、高校に3年間通った。鑑別所行きを避けたかった母親が手を回したのだった。「でもそこは鑑別所みたいな高校だったから。全国から俺みたいなのが集まってくるんだけど、悪いやつの中に入れば悪いやつの仲間になれるわけじゃなくて、もっと悪いやつからハンパなくいじめられるだけだからね」と、彼は教えてくれた。暴走族にも入らず、卒業後は同級生たちのようにヤクザにもならなかった。18歳からバーテンダーになり、その他の世界を知らない。その男のことが私は好きだった。

 2005年の夏のある日、私は男の部屋で裸で毛布にくるまり、携帯をいじっていた。寝返りを打った時に、ベッドと壁の隙間に携帯を落としてしまった。

 拾おうとして手を差し込むと指に紙袋の感触が伝わってきた。思わずつかんで引きあげる。くしゃくしゃの封筒。中を見ると5センチほどの一万円札の束が、1センチごとに輪ゴムで束ねて入れてあった。

 封筒の中から出した5冊の1万円札の束を眺めていると、ドアが開く音がして、男が入ってきた。

 クーラーをかけても暑い7畳間はタバコの匂いで淀み、壁紙は黄ばんでいた。

 背が高く、痩せていて、バスタオルを腰に巻いただけの男は、一重まぶたの目をこちらに向けた。私は封筒を握ったままだった。男の目を見て、それは店の売上を少しずつ抜いて貯めた金なのだと悟った。

 帳簿に残らない金だ。私がバッグに入れて持ち去っても、男は被害届けを出すことはできない。

 男は、私の様子を黙って見ていた。私はなにも言わずに札束をベッドの隙間に戻した。

 次の晩から、私はベッドの隙間に手を入れるようになった。金の置き場所が変わっているかを確認するためだ。手を差しこむたびにくしゃくしゃの封筒に触れることができた。狭いワンルームのベッドと壁の隙間に金を貯め、ひとりで銀座に店を張っていたその男に、私は信用されているのだと嬉しかった。

 2005年の冬に32歳だったその男は他に女を作り、27歳の私を捨てた。私にとっては、それがはじめて男に捨てられた経験だった。別れ際、私は男を殴ったと思う。

 自転車をこぎながら、私は、私と男の間にまだ「絆」があるならば、男も私に会いたいだろう、そんなことを考えていた。

(続く後半部分はこちらから読めます 

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『境界の町で』について

 本書は著者の岡映里が、2011年4月より原発事故の起きた福島県の町を訪れ、原発作業員の35歳の元やくざの男との出会いをきっかけにして始まった、3年に及ぶ密着ドキュメンタリーである。当時33歳の岡は、夫と別居中であり精神的なうつ状態を抱えていた。強い希死念慮に悩まされながらも「ただ死ぬのではなくジャーナリストとしての仕事をしたい」と福島に飛び込んでいく。当時の福島は放射能を恐れて大手メディアはもちろん警察すら退避をした場所であり、「死にたい」ほどに自棄になっていた岡にとって、自分の命を顧みずに現場復旧にあたる若い労働者たちを目の当たりにして衝撃を受ける。そして、作業員の男との淡い恋愛や、その後の男の父親の選挙への立候補を経て、原発のある町で生きる人々が、原発を簡単に拒絶できない事情や、他の地域からの差別的な目線、そしてたった3年でも忘れ去られ風化が進んでしまう時間の手触りについての実感をつかみとっていく内容となっている。(翻訳者向けのプロポーザルに書いた概要より抜粋)

 

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ではまた次の金曜日に。