自分の地図をつくろう

新しい場所に出かけて楽しい経験をしよう

感じの悪かった先輩にようやく認められて、嬉しくなかった話

最近、すごく感じの悪かった業界の先輩から「お前見なおしたぜ」っていう感じで優しくされることが増えた。で、かわいがってもらっていたのにそっぽを向かれるとか失望される、ってことではなくその逆で、良い待遇に変わったわけなので、嬉しいと思うはずなのに全然そう思わない。なんというか、私が実力をつけたからとか、私が会社をやめたから、とか、彼らはそういう「私の変化」を彼らが態度を変える「理由」として挙げているのだろうと思う。だからこそそういう場面にわたしが立ち会った時に本当に注意したいのは、
私は何も変わっていない。
単にその人が私に嫉妬していたりとかの理由で悪印象を持っていただけ。
で、嫉妬するのは当然あることだけど、それを自分の心にしまっておけずに態度に及ぼしていた。
つまり、その人が至らないだけなんだと思う。
「お前見なおしたぜ」って言われた時に気をつけたいのは、「私は成長したのだな」「受け入れてもらえるぐらい出世したんだな」と考えないことだ。そいつの思う壺だ。
その人は、はじめから感じが悪かったの。
思い出してみなよ、私に対してはじめから感じのいい実力もある先輩もいたでしょ? 
だから、感じの悪い先輩は、その人の都合で態度を変えただけなの。

やっぱはじめに陰口叩かれてたり、名刺受け取ってもらえなかったり取材妨害されたり、面と向かって「会社をやめないなんて覚悟がない、一流企業の看板を捨てたくないだけだろう」って言われたりとか、そういう事言ってきたそいつの印象はこっちからも最悪なわけで。そいつが私に態度変えてもそりゃ嬉しくないよな。こころの芯が見えないもん。オメーも忙しいなってぐらいで
私は変わっていないの。
私は、どんなに後輩に嫉妬することがあったとしても、私は私のために、どんな人にも絶対に分け隔てなくしようと誓った。
みっともない人にだけはなりたくない。

 

 

また倒れたらどうするか

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お祝い会でいわれたこと

本の出版お祝いをしました。

自分で席を予約して、自分で呼びたい人を呼んで、自分で開いたお祝いの会なのでしたが、とても楽しかったし、来た皆さんが出版を喜んでくれていて、嬉しかったです。

 

参加してくれた人の中で、

シルバーウッドという会社を経営している下河原忠道さんという人がおります。

彼とはもう7年ぐらいの付き合いになるのかなと思うのですが、

震災後、どーんとうつ状態になり、デパスを飲んでいる私に、

「デパスはまじでやめてほしい。自分の家族もデパス依存になって、

薬と縁が切れるまで10年戦争したから……」

という忠告をくれました。

で、デパスは飲むのをやめたという。

そういう意味でも恩人なのですが、その下河原さんが私にこう言うのです。

 

「あさみちゃん(本名)、本、よく頑張って書いたよね。

ほんとに大事なことが書いてあると思う。

こうやって立ち上がってきたんだっていうのがよく分かる良いドキュメンタリーでもあるよね、この本は。

でもさ、多分生きてるとまた、これまで以上に落ち込むような出来事も起きると思うんだよ。そういう時どうする?」

 

と。

下河原さんは起業家で、今までに誰もしたことがないことをやってきている方です。

一人でなにか新しいことをやるのは孤独と友達になるしかない部分ってあると思います。

彼のこの言葉に、彼が過ごした幾つものやりきれない、たった独りの夜があったんだなと想像させられた。

 

私はこう言いました。

「また立ち上がる、ということしか答えは用意されていないんじゃないですか」

と。

 

今の自分だからできることはなんだろう

さて、今自己啓発エッセイを出した私ですが、

客観的に見て、

バツイチ独身であり無職であります。

失敗したことは数知れず。

成功はまだしておりません。

今現在も、一人でしーんとした部屋であれやこれや考え事をしている時、

心も身体もきしむような孤独を感じることがあります。

誰かと会話したいと歯噛みするぐらい苦しい夜もあります。

 

でも、こういう自分だから。

たとえば、映画『ローガン』を見て、ローガンの孤独を自分と重ねたり。

ローガンが最後生命を引き換えにしても構わないと思えるほどの存在が与えられたことを祝福することができたり。

と、孤独でいるからこそ楽しめることだってあるんだなと思うんです。

 

それに、周りの人たちが結婚や恋人ができたり、起業が成功したり、前職の仲間が出世したり、いいことがたくさんあったときに、

どんな自分であっても、素直に喜べる。そこも気に入っていることのひとつです。

 

だから、これからどんな苦しみが来るかわかりませんが、

例えば末期がんのように、肺に水が溜まって、

ベッドの上に寝ているのに津波にまかれて窒息しかけているような苦しみを引き受けることになったり、痛みを引き受けることになったり、

大事な人との離別を経験したり、いろんなことがあるのかもしれないですが、

そこで、その経験をしたからこそわかる、できる、「よかったこと」を探していくことをするしかないなと思いました。

それは、知恵を常に使うっていうことだと思います。

 

それにはやっぱり読書をたくさんするしか無いなと最近は思っています。

そんなわけで今は戊辰戦争のことをいろいろ読んだりしています。

これが何かの役にすぐに立つわけではないでしょうが、新しい知識を入れていくことが、自分を自由にすると思っています。

 

あ、そうだ。

うちは老眼が来ない家系みたいなんです。

おばあちゃんも父も老眼になってないです。

これは本を読むにはすごく恵まれた体質だと思うので、先祖には感謝しています。

 

 

それでは、楽しい下半期をお過ごしください。

 

重版しました。皆様に感謝します。

 

全文公開『自分を好きになろう』あとがき&解説

新著『自分を好きになろう』のあとがきと医療監修をしてくださった精神科医の高沢悟先生の解説を全文公開します。 

あとがき

 

 私がもっとも尊敬する俳優・松方弘樹さんが74歳で死去したと報道された日が2017年1月23日です。この日は、私が2000年から勤務していた出版社に退職届を出した日でもありました。

 

『県警対組織暴力』という映画を見たのがきっかけで松方弘樹さんのファンになった私は、出演作品をかたっぱしから見ていきました。

 彼の『脱獄三部作』と呼ばれる、刑務所から脱走するというテーマに貫かれた3作品『脱獄広島殺人囚』『暴動島根刑務所』『強盗放火殺人囚』を見て、私が松方弘樹さんを好きな理由がはっきりわかりました。

 それは、二世俳優というある種の「親の七光り」的な十字架をかなぐり捨てんばかりの、勢いのある体当たりの演技をするからです。若き日の松方弘樹さんには自分の囚われているものすべてをぶち破る勢いがあったのも好みでした。

 

 好きな人に振られたのが2015年の夏のこと。それがきっかけで、自分が囚われていたネガティブ思考とうまく付き合って、自分を前に向かせるということを常にするようになり、そして自分を好きになる練習をし続けて、ようやく、私はほんとうの意味での夢ができました。

そして、本を書く機会に恵まれたのもいいタイミングでした。

 

 4月から私は、専門学校生になりました。精神保健福祉士になるための勉強をするためです。精神保健福祉士とは、精神障害者向けに特化したソーシャルワーカーです。

 精神障害者の方や、私のような気分障害の疾患を持っている方、生きづらさを感じている方のために働いてみたいと思ったのです。

 

 私自身、病気が悪かった時、障害者手帳の交付を受けられなかったり、行政サービスを受けることができませんでした。資格はあっても、知識がなかったり錯乱状態だったりして、申請どころではなかったからです。

 

 精神疾患で苦しんだ私自身もそうですが、多くの精神障害者が望んでいるのは、病院にずっと入院することではなく、街で暮らしながら障害と向き合っていくことです。

そのための手助けや仕組みづくりの一環として設置されたのがこの資格なので、自分のためにもなると考え、精神保健福祉士の資格を取るための学校に入学することにしました。

 

 ソーシャルワークの勉強をしながら、自分を助けてくれた認知行動療法も学び、本を書いて生きていきたいというのが、私の夢です。

 

 ところで「7つのスイッチ」が全部入った状態になった頃、私は精神科で処方された薬を飲み忘れるようになってしまいました。月に一度の通院の時に薬が残るようになったのです。

 

「精神疾患は慢性病、だから薬は一生飲まないといけない」と固く信じていたので、飲み忘れは病気の再発につながるのではないかと怖くなり、先生にそのことを話してみました。すると、意外なことを言われました。「飲み忘れてるなら、そのまま忘れちゃっていいですよ」と。

 

 驚いている私に先生はさらにこう言いました「岡さんは、自分が攻撃的になっている時に病気がつらい症状になっていて、そのあとドーンとうつになって死にたくなる、っていうパターンを自分でつかんでいるよね。だったら、いい機会だから減薬してみようよ。もし悪いパターンにはまったと思ったらすぐ相談してください、また薬をちゃんと調節してあげるから。そろそろひとりで歩けるようになったのかもしれないよ」と。

 

 薬を飲まずにやっていけるかもしれないと感じた私は嬉しくなりました。そして、先生の言葉に背中を押され、この時から私は薬をきっぱりやめました。現在も薬は飲んでいませんが、自分の状態を常にモニターし、病院とのつながりは絶たずにいたいと思っています。

 

 この本に書いたことを実践したことによって、私は、精神科のお医者さんにだけ頼っていては、病気は治らないのだということがようやくわかりました。

 その上で、治るには人任せにするのではなく、「自分は治りたい、自分で治すんだ。お医者さんと一緒に治すんだ」と決めることが大事なのです。

 

 私のように、精神疾患を持っていない方でも、あまり今幸せではないなと思っているならば、「幸せになりたい」と決めるところから、幸せの道がはじまるのだと思います。

 

40歳になる今年から、安定した立場を捨て、いきなり生活が激変することに不安がないわけではありません。

 

 でも、失敗することよりも、挑戦しなかったことをおそらく後悔するのではないかと思い、過去の失敗を通じて生まれる不安や、ネガティブな考えから「脱獄」することにしました。

 最後になりますが、医療監修を引き受けてくださった精神科医の高沢悟先生、高沢先生をご紹介くださったナラティブホーム診療所所長・佐藤伸彦先生、下河原忠道さんに感謝致します。

 

 また、間有希さんとともに伴走してくださった滝本志野さん、素敵な装丁をしてくださったtobufuneさん、福島の親方、筋トレをすすめてくれた菅野完さん、そして松方弘樹さん、またこの本に登場してくれたすべての皆さんに感謝致します。

ありがとうございました。

2017年5月8日 岡 映里

 

解説

医療法人桜桂会 犬山病院 院長

高沢 悟

 

 この本の主人公、当時38歳の女性、映里さんは、落ち込みとハイテンションが繰り返し襲ってきた結果、自信を失って、自分で自分の世界を狭めて負のスパイラルにはまってしまった生活をしていました。「双極性障害」というあまり聞きなれない病名を告げられる方は、今とても増えています。「うつ病といわれていたのに急に病名が変わった」「躁うつ病とどう違うの? 別に私、躁になってないけど……」、そんな感じの方、結構いるのではないかと思います。誰でも調子のいい時は自分が病気だとは思えませんし、どちらかというと晴れ間の見える日は少なくて、どんよりと曇ったじめじめとした辛い時間を過ごしているのではないでしょうか。「双極性障害」という病気はいってみれば 「勝手に色や暗さの変わる眼鏡をかけた人」のような状態です。同じ事実が全く違ったように見えてしまう。それもちょっとしたきっかけで、世界の姿がガラッと変わってしまう、そんな苦労をしているのです。私は、メンタルの病気の中でも、ある意味、最も分かりにくく治るのにも時間がかかる、そんな病気のひとつだと思っています。

また、「双極性障害」をはじめ、メンタルの病気はいろいろな特性の混合に名前がつけられている関係で(スペクトラムあるいはディメンジョンと呼んで、ひとつの山並みに「病名」がつくような感じです)、典型的なものは診断に迷うことはありませんが、実際は複数の疾患が併存する(comorbidity)場合も多く見られます。「双極性障害」はそういったケースが多いため見分けづらい疾患のひとつだといえます。そして、うつ病をはじめメンタルの病気を体験した方は「自分が悪いんだ、周りが悪いんだ」とどこかに原因を求めすぎて、挙句の果てに自分を「病者」というアイデンティティーに知らずにはめ込んでしまいます。治療が進んで確かに症状が無くなっていても「もう前の自分とは違う」と感じて自信を持てない方が多いのです。メンタルな病気に罹った方は、症状だけでなく罹ったこと自体が一種のトラウマ(外傷)になってしまうので、常に再発の恐怖とともに生活しているといってもよいかもしれません。実はこれは、現実を見ているのではなく、自分の思考(あるいは感情)を事実と誤認している状態なのです。最近の脳科学でも、うつ病を持続させているのは、この否定的思考や感情の反復(反芻:rumination)ではないかと考えられています。つまり、自らの思考が病気も持続させているのです。

 主人公の映里さんは、本書『自分を好きになろう』のなかで、そんなネガティブな世界から、いろいろな人の助けを借りながら(これも自分の力の一部です)、サバイバルした経験を語ってくれています。そして病気は確かに自分のせいではないけれど、病気と付き合っていくやり方は自分で決められるんだ、ということに気づきました。きっかけは、ありふれたひとつの「行動」でした。それは「症状」というより「疾病行動」ともいえるある種の自分で作った“思い込み”に気づくことからはじまりました。掃除をする、それも自分の近くのペットボトルを10秒だけ片付ける、という実現可能な小さな「行動」からはじめたことが成功の元でした。

 映里さんは仕事柄、調べ物が好きで凝り性の側面があるようです。こういったもともと持っている力、レジリエンスに気づきそれを肯定すること、そして何より「行動することによって思考や感情が変化していくことを発見できたことが大きかったように思えます。

 私たちはよりよい自分になろうとして、つい自分に対して批判的になります。誰かからの、特に自分にとって重要な他者の評価を気にしながら生活をしています。私たちは生育の過程で、自分のこころのなかに厳しい親の姿を取り込み、自分を監視する「超自我」といわれる装置を作り出します。これがあるからこそ私たちは規範を守り社会的存在として機能できるのですが、病的な状態に落ち込むとこれが秘密警察のようになって一時も体を緩めることができなくなります。映里さんは小さな実験を繰り返すことで、今ある自分という「事実」と、自分だと思っている「解釈」を見分ける術を見つけたように感じます。何かをしている自分に集中することは、過去や未来の不安から逃れ、今の自分を感じるひとつの方法です。そして実際に何かが変化した実感を持てば「自分が自分を変えられる」感覚が生じます。これを自己効力感と呼びますが、実はこの感覚こそ、どのような薬にも勝る究極の治療薬といえるものなのです。

 映里さんは、掃除をしはじめ、取りあえず肯定的な評価をすることを新たな習慣に決め、筋トレで自己変容まで至りました。もちろん、この方法だけが唯一のものではありません。自分に合った、自分のレジリエンスを発揮できる方法は人それぞれだと思います。でも、人に笑顔で接して相手の幸せを思うためには、まず自分の幸福を願い、自分を好きになれなくてはそうはできません。映里さんの体験は、もう一度好きな自分を見つける道行だったと思います。

 映里さんは、精神保健福祉士になるため新たなチャレンジを開始しました。彼女のリカバリー(回復)は終点ではなくスタートラインとなりました。自分はどうなっていくのだろうと考える前に、やってみたらどうなるんだろうと、ちょっとした実験をしてみるといつの間にかそれが自分の生活になっていきます。世界がいろいろに変化して見えたのは、自分が変わらないものだと思っていたからなのかもしれません。どうやら、映里さんは「自分」から自由になれるスイッチも手に入れたようですね。

 

 

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入学2ヶ月でぼっちになった話。

自分で決めたことなのに苦しい。なぜ?

 

学校に入学して2ヶ月が過ぎ、もうすぐ3ヶ月目です。

結構あっという間だなと思ったのですが、いろいろ発見がありました。

まず、一緒に学んでいるクラスメイトの属性が本当にバラエティに富んでいます。

私が最年長かと思ったら、50代の方が学んでいたり。

逆に大学を出てすぐに入学してきた人もいたりします。

当然、性格も様々です。

出版社に勤務していた頃は、なんだかんだ言って、働いている人のキャラが似ていたと思います。基本的にみんな本を読むのが好きで、文化系の趣味や知識が豊富で、あんまり喧嘩っ早くなくて、酒をよく飲む人たちでした。

学校に来てみて、クラスメイトの人たちのキャラがあまりにとっちらかっているので、久しく思い出さないことを思い出しました。

「う、この人苦手」

「こういうシチュエーション、嫌い」

これです。このブログで散々「怒らなくなった」とか書いてるのに、全然進歩してないじゃん、って感じですよね。

でも、クラスの中にいるだけで別に利害関係なんてないのに「キャラが受入れられない人がいる」っていうのがこれほどのストレスになるんだな、というのは発見でした。いるだけで不快、というほどまでではないのですが、なんとなくじわじわ削られる感じなのです。

だから、職場とか学校とか、苦手な人がいる場所に行くストレスって、バカにできないし、自分への影響って確実にあるんだなと改めて気が付かされました。

 

私は例えて言うとこういう会話が苦手です。

「今日、駅を出てまっすぐ歩いて、3つめの信号を左に曲がって、そのまま歩いてると川があったので橋を渡ってきました」

なんというか、その体験をしたその人ならではの発見を伝えてくれないまま、プロセスだけを教えてくれるような会話です。

で、さらに苦手なのが、この「プロセス共有」の話を、グループでするというものです。

じゃあ、自分は、自分が楽しくて盛り上がっている時はどういう会話を普段しているのか、ということを逆に最近考えているのですが、まあ、それはおいといて。とりあえず「プロセストーク」とでも名づけましょうか、そういうものがダメなんです。苦手。

何度かその輪に加わって、どうしようもなく退屈になってしまいました。

「なんでこんなダラダラ話してるんだろう?」とかイライラし始めたりして。

「面白いのか、この話」とか。

で、結局苦しいので、ひとりで本を読んだりスマホをいじる感じになりました。

すると教室でぼっちじゃないですか。

そういう時に自分がすごく苦しい。

私、結局人とうまくやれないんだって自分を責めてしまう。

 

自分がやりたくないことをしないって決めたから、そういう「プロセストーク」輪から離れる決断をしたわけです。

それは自分が決めたことなのに、なんで苦しいんだろう?

 

って思ってた時に、精神科医の水島広子先生と漫画家の細川貂々さんの共著『それでいい。』を読みました。

創元社様よりご恵投頂きました。ありがとうございます。

 

水島先生の本も、細川貂々さんの本もたくさん読んでいて、お二人の組み合わせで本が出ると知ってから発売が楽しみだったのですが、思いのほか早く、本が手に入ったので嬉しかったです。

 

人間関係のズレと役割期待を知って自分を捉えなおそう

 

水島先生は対人関係療法を日本に紹介した第一人者です。

対人関係療法は1960年代に誕生した精神療法です。薬物治療をメインとしないこの療法は現在急速に普及しているそうです。

そのコアとなる部分は「人間の悩みは対人関係で生まれ、対人関係に癒やされる」という考え方なのかなと今現在の私は理解しています。

 

細川さんが苦しんでいる自己イメージ「ネガティブ思考クイーンである」ということを、水島先生はまず受け止めて「それでいい」「それがあたりまえ」という新しい見方があることを示します。

そのうえで、自分がこのネガティブである自分のままどうしたら「ラク」に過ごせるのか、具体的な「人間関係」の圏域を示して語られていて、それがすごくわかりやすく(言ってみたら「3ステップ簡単クッキング」のように、すごくすっきりした理論でとてもわかりやすい、一度覚えたら心に残る)示されているので、すごくいいなと思いました。

つまりそれは、人間関係の「ズレ」と、役割期待というふたつのキーワードで語られます。

「ズレ」というのは自分がこうであるべき、というような自己イメージや思い込みが、実際に自分がこうであるほうが「心地いい」「自分らしい」という実像や本音とズレているのではないか、ということだと私は理解しています。それを見つめなおしてみよう、というものです。

 

私自身は、「自分に興味のない会話には一切加わりたくない」というある意味超わがままな「本音」を持っています。でも、自分が「集団でワイワイできる人」であってほしい、とも同時に思っています。

ここには明らかにズレが存在しています。集団でワイワイできる自分になりたいと思っていても、繰り広げられているのは興味が持てない会話なのです。どちらを選ぶか? という自己決定の結果「ひとりでいる」ことを決めたわけです。ここにはなんの葛藤も本来ないはずです。ではなぜ苦しむのかと言ったら、自分の思い込みや理想との「ズレ」に苦しんでいたのだと気が付かされます。

 

また、役割期待についても、人間関係を3つの圏域に分けて、自分にとっての重要度の順に、自分が相手にしていいこと、しないほうがモメないであろうことを整理していますが、これはすぐにでも使える方法だと思いました。

 

さらに、細川さんは水島先生から、「自分についてネガティブに評価している点」を「ポジティブに、もしくはニュートラルに捉える」ための価値転換の方法を示してもらい、その都度目からウロコ状態になっているのですが、これってつまり、自己客観化のためのプロセスだなと思うのです。

私自身、いろんな方法を試してきた中で、やっぱり、自分の捉えなおしってすごく重要だなと思っていて、その自分の確信と、これから本の執筆などを通じてやりたいことに触れる内容になっていたので、すごく親近感を持って読みました。

 

私は教室で一人でいることが多いけれど、それは別に孤立しているわけではない。

自分が心地よく楽しく、また必要を感じた時に人と繋がることができる自分を尊重しているから、いま一人でいるのだ。

苦手な人とも、自分が適切に距離を取ることができていれば、これ以上自分が相手に悪感情を持つことはない。そういう意味でも、「ワイワイできる自分」に基準をおいて苦しむことは全く意味がなかった。そこに気が付かされました。

 

ひとりがこわくないから群れない、いつも穏やかで、必要に応じて楽しく会話できる、そういう自己イメージに作り変えていこうと思いました。

 

いい本をありがとうございました。

 

自分を捉えなおす

書いて自分を見つける

 

本が発売になりました。

今日は体調を崩して寝込んでまして、なんだかぴりっとしない一日になっちゃった。

共謀罪は成立。

国会が終わって、早朝の空は青くて澄んでいた。暑くなりそうだな、なんて思っていてこの時自分のだるさはまだ二日酔いかなんかだと思っていた。

昼ごろからどんどん熱っぽくなっていき、寝ながら都心のビルに区切られている狭い空をみるか、放送大学も学校の勉強の復習になるので少し見た。

夕方、カレー食べに外に出たけど、一歩前に進むとアスファルトが沼みたいに沈むので、信号渡る時に横断歩道で溺れそうになった。だからすぐに帰って寝た。

眠るのに飽きたらTwitterを見ていた。

 

私が作家になるとかなんて考えもしなかった時、大きな地震がきて、生活がまるっきり変わってしまった。私は東京のこの部屋で見えない津波に巻かれて溺れていた。家から出られなかった。自分が遭難しているんだということ自体に気がつくこともなかった。

声をかけてもらったウエブマガジンにぽつぽつ、エッセイを書かせてもらって、それが自分が書くことを意識した最初だと思う。

Twitterではこのころから私の文章を読んでくれている人が、新著を買ったとTweetしてくれているのを見つけて、ほんとうに嬉しかったです。

 

なぜ書くことに取り憑かれたのか。

それは書くことで自分を捉えなおす事ができたからなんじゃないかなと思う。

なんかしらないけど、わけがわからないぐらい苦しい、死にたいと思わないけど死ぬことを選ぶってこんな状態なのかもわからない。そういうことを考えていたのが2011年の暮れ頃だった。

頭は混乱しきっていた。

 

2011年12月16日。
わたしは自宅から一歩もでられなくなってしまった。
職場にも行けなくなった。
結婚していたが、夫には理解出来ないかもしれない理由で結婚生活も「精算」した。
わたしには子どもがいないから、社会生活も家庭生活もなくなり、わたしはわたしだけしかいない世界で暮らし始めた。
わたしは震災以前のわたし自身をもう永遠に取り戻せないかもしれないと思うようになっていた。

ねこ3匹とわたしひとりで、部屋の中でしんとしていた。
自分を小さくしていって消してしまおうと思っていた。

「ああ、この都心の部屋にも、津波がきたのだ」と気がついたのは、引きこもって2ヶ月目のことだ。
東京都心の4階のこの部屋にも、津波が来ていたのだ。
わたしはこの部屋で見えない津波にまかれて溺れていた。
わたしのもとには、救助も、災害ボランティアも来なかった。避難所はできなかった。
報道は、東京で津波に巻かれているわたしやわたしのような誰かの存在を素通りした。
わたしは誰かのためにネット上に情報を提供する身であり、
思いやりのない誰かを攻撃する身であり、被災地に寄り添う身であった。
わたしは溺れているわたし自身を助けようとはしなかった。わたしは自分が溺れていたことを知らなかった。

「わたしは生きたい」「死にたくない」と、自分の頭に自分の声が響いたのはその晩のことだ。(ウエブマガジン『アパートメント』へ提供したエッセイより)

 

これを書いた時に、「ああ、自分は今助けが必要なぐらい困難な状態なのだ」とようやく自分で気がついた。

それは驚くような発見だった。

自分が健やかな方向に向かうためには、今自分がどんな状態なのか、まず言葉にする必要があるのかもしれない。

暗闇の先にまだ光は見えないような気持ちだったけど、この時、「自分を発見した」鮮やかな体験は、書くことによってもたらされたのだ。その事実が自分に残った。

 

職業上、文章には大量に触れるし、仕事を通じて原稿自体は大量に書いてきたと思う。

でも、自分のための文章を書く力は脆弱だったから、時間をかけて徐々に徐々に、少しずつたくさん、かけるようになった。

 

自分の負の過去を宝物に変えることができる

 

私は自分が持っているものを愛することができなかった。

不仲の両親、自殺した母、バブル期なのに貧困の中で育ったこと、若くない自分自身、自分の病気、友達をうまく作れない性格、人とどうしても距離をおいてしまう性格、突然いろんなことが色あせて見えてどうでも良くなってしまうクセ、キレてしまうクセ、離婚した過去、そういうもの。

 

ところが、自分が文章を書くようになってしばらくして、ある時、

「これって昔の文学エリートみたいな経歴じゃね?」というふうにも思ったのだ。

世の中には「苦労なく育った」ことにコンプレックスを持つ人だっているらしいのだ。

そう考えたら、自分のこのマイナス要素は自分の解釈一つで、「宝物」に変えることだってできるんじゃないか?

 

北方謙三さんが作家になった理由は、肺結核を病んで就職が絶望的になったことなのだという。「結核は一般社会人になるには不適で落伍者だろうが、文学的には結核持ちはエリート」という超ウルトラCのような発想の転換をして文学の道に入った。

そういう価値の転換は、自分の人生にも起こせるんじゃないかな、そんなことを思った。

要はなんでも良いんだ、自分を励ますことができたら、倒れていた自分を起き上がらせることができる。そして方向は定まってないかもしれないけどどこかに歩き出せる。歩いていたら誰かに会ったり、どこかにたどり着く、また転ぶかもしれないけども。そのための「起爆剤」が、私にとっては書くことを通じての「自分の捉え直し」の作業だった。

 

書くのは未だに、たくさん書けない時が多いし、考え込んでいる時間が長いので、私の憧れる多作の作家にはまだなれないかもしれないけど、時間をかければきっと自分が好きなものを書ける自分になれると信じている。

 

私の好きなものは、車を走らせている時に流れていく風景、それを見ながら運転席に座っている人とある種の自己開示をしあう瞬間、この世から消えた人について考えることだ。だから、今そんな要素のある文章を書いている。時間をかければ。絶対に自分が好きなものを作ることができると信じている。

 

もうずっと、24歳の頃から、「自分は若くない」って信じていて、6月生まれの私は毎年、年が明ける度に自分の年齢に一つ年を足して、心の準備を半年もしなければ誕生日を平常心で迎えることができなかった。

今月、40歳になるけど、自分がもう若くないとはなぜか思わない。

人生が80年もある理由は、自己変容を起こす機会を伺える、そのための自分の捉え直しをする時間が与えられているからではないかなと思う。

そういう機会を持つことができただけでも幸せだ。それも、書く、という行為によって。

 

自分を捉えなおすきっかけになったことは書くことだったし、自分が好きな世界を作る道具になるのも書くことだ、私にとっては。

 

今日も文章を書くことができて嬉しいです。

 

『自分を好きになろう』、自分を好きになりたいと私自身がずっと願っていることだ。

自分を止めてしまうことの一番の要因は自己否定だと気がついたからだ。

この本に漫画を描いてくださった瀧波ユカリさん、医療監修をしてくださった犬山病院の高沢悟先生、そしてKADOKAWAの編集の滝本さん、間さん、それから自分が好き勝手なことを書ける環境を整えてくれたあらゆる人達に感謝します。

 

 

 

全文公開『自分を好きになろう』第一章『ゴミ屋敷を片付ける』後編

 

 6月15日に発売になる新著『自分を好きになろう』の第一章を三回に分けて発売に先駆けてブログで全文公開します。今回で完結です。

第一回、第二回はこちらから読めます。

www.okimhome.com

 

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ものの捨て方がわからない

 

「しかたない。片付けができる人間だったら、そもそも部屋が汚部屋になっていないもの。きっと、私とおなじような汚部屋の人たちがたくさんいるはずだし、その人たち向けのサービスがあるはず。まずはゴミを捨て切ってから、掃除や片付けを本で勉強しながら実践していこう」と決めました。

 

Googleで検索すると、「軽トラ積み放題8000円」というサービスがたくさんあるのを見つけました。ゴミを分別しないで、軽トラに載せられるだけ載せて引き取ってくれるサービスです。私は次の休みに早速電話で予約を入れ、その日のうちに本棚5本、厳選した数十冊を除いた本すべて、壊れたまま放置してあった冷蔵庫、山積みの服、集めたけど結局着なかった和服、健康器具、大量の食器など、前から不要だと思っていたものを持っていってもらいました。

結局軽トラ1台に載りきらず、追加料金で3万6000円になってしまいましたが、自分ひとりで処理することを考えたら永遠に片付けが終わらないと悟ったので、3万6000円は自分のために払おうと決め、支払いました。

 

私のゴミを積んだトラックが遠くに消えていくのを見ながら、こうやって人の助けを借りなければ捨てられないほどのものを、ゆっくりと時間をかけてではあるけれど、自分ひとりでこの部屋に運び込んできたんだなということに改めて驚いていました。

 

こんなふうに大きな片付けは、「軽トラ積み放題」のサービスを利用したりして、合計2週間ほどで済みました。

 

キッチンからも、何年も使ってない調味料や、使いそうもないけど取っておいた食器などを一掃しました。片付いたキッチンで、料理を久しぶりに作りました。食べ飽きた惣菜弁当ではない、自分のために作った料理を食べた時、しみじみ、「ああ、片付けてよかったな」と思いました。体の中までキレイになっていく感じがしたのです。

 

しかしそこからが「断捨離」の本番だったのです。

 

「これは本当に必要?」と、ものと向き合う日々がはじまりました。

「必要な気がするから取っておいたけど、やっぱりいらないな」と、部屋にあるものひとつひとつに向き合って、本当に必要なもの、好きなものだけを厳選し残しました。

それには半年ほどの時間が必要でした。この作業は、自分はどんなものを無駄買いしてしまうのか、その傾向をつかむいいきっかけになりました。私の場合は、2000~30

00円くらいの服をネット通販で買ってしまうのが「クセ」です。今でもそのクセは残っていますが、着ないものは意識して捨てるようにしています。

 

掃除ができたことが自信に

 

ペットボトルをゴミ袋に入れた日から1年と4ヶ月ほどが経った今、部屋はキレイなままです。仕事が忙しい時など、たまに散らかることもありますが、部屋にものが少ないため、ひどくは散らかりません。ものをひとつ買うと、家にあるものの何かをひとつ捨てるということが習慣になりました。

 

そして、今私は、床の拭き掃除にはまっています。

Googleが従業員のメンタルヘルス向上のために取り入れたという「マインドフルネス」という考え方が最近ではよく知られていますが、この考え方は簡単に言うと「今、ここ」に意識を集中させ、余計なことを考えないということです。そのことで気持ちが安定し、作業の効率が上がるのです。

 

床の拭き掃除をしている時に私は、マインドフルネス的なリラックスと、雑念が消えてすっきりした感覚が得られることに気がついたのです。床を拭く時リズミカルに手を動かしているのが、雑念を消すためのペース作りになっているのでしょうか。私はスマホ依存気味ですが、ながらスマホはできないですから、床を拭くことだけに集中するしかありません。

そして、拭き掃除を終えると、本当に気分がすっきりしているのです。

 

彼に振られて、ベッドに寝ながら惣菜弁当を食べている時の自分には想像もつかなかったこと。それは、掃除のやり方をすっかり身につけ、床掃除をしている今の自分です。

 

38歳からでも新しい習慣を身につけることができるんだなと、今、掃除ができる自分になったことがとても自信につながりました。

何か新たな挑戦をする前、片付いた部屋の真ん中に立って、「こうやって、掃除もできるようになったんだから、私はいつでも、なりたい自分に変われるんだよ」って思うと、「本当にそうだな」と感じるのです。

キレイになった部屋が、その何よりの証拠です。

私は私が変われるという「証拠」の中で毎日暮らしているようなものなのです。

そう考えると、変化のきっかけを与えてくれた失恋も、悪くないなと思えます。

 

人生が変わる「大掃除」実践編

 

・窓を開けるところからやろう(私は窓すら開けられなかった)。換気で気持ちはだいぶ変わる。

・やる気の出る本を読むのもいい。

・一気にやろうとしない。どこか1ヶ所10秒片付けから。

・ゴミの処理は「軽トラ積み放題」や友達にも頼る。自分でなんでもやろうとしない。

・長い目で見て、本当の意味での捨てグセをつける。

(第一章 了)

 

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目の前の人がモラハラ野郎かどうかを見抜く簡単な方法

その人は私の何を指摘し否定しているのか?

 

 

簡単に書きます。

 

人っていうのは、地球上に存在していて、時間とともにありますよね。

で、その制約の中で、人が人であるための要件っていうのはふたつあると思うんですよ。

それは

・行動=何をするか(do)

・存在=どうあるか(be)

です

 

行動っていうのは、

ご飯を食べる、メールを送る、部屋の掃除機をかける、花に水をやる、猫を撫でる、スマホをいじるとかです。

 

存在っていうのは

日本人である、39歳である、独身である、母子家庭育ちである、現在無職である、などです。

 

さて、ここまではOKですよね、私にもわかるように書いてるので、わからない人はあんまりいないはず。

ではこの行動/存在という二項を使って、目の前の人がモラハラかどうかを見分ける方法をお知らせします。バカバカしいほど簡単なので。

 

生きてるとたまに、人に何かを指摘され正したほうがいいですよと注意を受けることってありますよね。親とか上司とか恋人とかに。

その時に

行動/DOを指摘する人はモラハラとはいえないと思います。

存在/BEを指摘する人はモラハラだと思いますので一刻も早く距離を置くといいと思います。

 

具体的には、ご飯の食べ方が自分では気が付かないけど汚いとします。

例えばクチャラーとかだったり。

その時に、

「音がすごくするから、口を閉じて食べたほうが良いよ」

と指摘する人は行動を指摘しています。

「そういう食べ方をするって、育ちが悪い」

と指摘する人は存在を指摘しています。

 

存在=beは変えられない。

行動は変えることができるので、指摘を聞いた上で納得できる内容なら変えればいいと思うけど、

存在、自分であること、っていうのは変更しようがないので、そこ突っつかれても苦しむだけなんですよね。

なので、存在について何か言及してくる人って気をつけたほうがいいと思います。削られるから。

 

で、自分に対しても、自分でそれやってたりするんですよ。

「私もう40歳だからなぁ」とか。これ変えようが無いですからね。beについてはしょうがないんだよ、doを考えろ、それに時間使えって思います(自分に言っている)

 

おしまい

 

これは先輩が編集した本なので良かったら読んでください。結構売れてていい本です。